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映画だいすき〜

わたしを離さないで

2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作といえば、『日の名残り』が有名ですが、今日は彼の作品で一番好きな、『わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go)』の映画化作品について書きます。

クローンの進化が生み出す生命倫理問題を題材とした映画は、これまでも多く作られてきました。しかし、それらの多くがSF色の強い、登場人物のアクションを重視した作風だったことと比較すると、この映画はずいぶんと真に迫るような、哲学色が強くかつ現実的な作品であるように感じます。これは、ド派手なCGやVFXなどの映像技術が使われていないから現実味がある、という意味ではありません。原作者カズオ・イシグロの落ち着きのある、しかしエモーショナルな文体が描き出す医療のあり方は、観るものに何を語りかけているのでしょうか。

1.登場人物の特徴

クローンという題材とアメリカ映画のアクション性は基本的に非常に相性がよく、代表的な例としてシュワちゃん主演の『シックス・デイ』や、アルマゲドントランスフォーマーで有名なマイケル・ベイ監督の『アイランド』などがあります。これらの作品において、クローン側の人間たちは“オリジナル”の人間たちに臓器提供するためだけに造られた、いわば人ではなく“もの”としての扱いを受けます。

アメリカ映画におけるクローン問題をテーマにした作品でのゴールとは、ずばりヒューマニズムの奪還であり、人道主義のために必死に闘うということが主人公に求められています。そのため、シュワちゃんやウィル・スミスのような、たくましく筋骨隆々の、マッチョイズムの権化のような男性が主役に抜擢されることが多いですね。ハリウッド流SF映画の大儀は、悪や不正と戦い、これらを打ち負かすことによって完成されるのです。 

それに比べて、本作の主人公キャシーはマッチョイズムのマの字もないか細い少女であり、彼女の友人ルースも同じくきわめて細身です。『アメイジングスパイダーマン』で主役をつとめたアンドリュー・ガーフィールド演じるトミーでさえ、本作では病院服を着せられ顔色も悪く、なんとも虚弱な印象です。
とにかくクローンたちが一様に細く弱々しく、人間らしくあるために闘えるような肉体とは到底言えません。この作品では、クローンたちはひらすらに弱者で、抗うことなく“オリジナル”側の人間たちから搾取され続ける立場なのです。

そしてそれが顕著にあらわれるのが、ルースの3度目の臓器提供のシーンです。驚くべきことにこの手術シーンはきわめて詳細かつ鮮明に映し出されており、彼女の体から内臓が取り出される場面がはっきりと描かれます。いかにも物議を醸しそうなむごいシーンですが、これを以ってして監督を単なる変態サディストと決めつけてしまうのは、すこし早合点ではないでしょうか。

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実にイギリスらしく救いがない、なんとも残酷で皮肉な展開だなと思いますが、同時に逞しい男性がアクションで活躍するアメリカ映画と対照的に、か細く弱々しい女性の体を切り刻むという、ある種のフェティシズムと表現しましょうか、独特の美意識のようなものも感じ取れます。色調を冷たく抑えた手術室なかで水際立つ真っ赤な臓器たちは、逆説的ながら、説得力をもって生を観るものに突きつけているように感じます。

2.若者のアパシー

さて、冒頭で述べた「現実的な作品」という言葉に関してですが、これは画のビジュアルや俳優のルックスのみを評しているわけでもありません。筆者が非常にリアルだと感じたのは、クローン、つまり“臓器提供者”を育てる施設ヘールシャムの子供たちが、自分たちに突きつけられた運命に対して、あまりに無関心かつ無抵抗であるという点です。

まず違和感を覚えるのは、サリー・ホーキンス(全然関係ないけどシェイプ・オブ・ウォーターサリー・ホーキンスの演技ほんまによかった、みんな観てな)演じる新任教師ルーシー先生が、ある日耐えきれず生徒たちに彼らの宿命を打ち明けてしまうシーンです。実はヘールシャムは臓器提供のみを目的としたクローン人間の生成が合法化された世界で、ドナーとして生を受けた子供たちに人道的な教育を施し、人間として育てることによって"オリジナル"の人々の生命倫理を試す最後の砦のような施設だったのです。ルーシーは待ち受ける未来の悲惨さを知らずに、無邪気に振舞う子供たちの姿に胸を締め付けられ、ついに真実を口にしてしまいます。
しかし、「大人になったら自分の体から臓器を取り出される」と聞かされて、普通の子供ならばショックを受けたりパニックに陥りそうなものですが、ヘールシャムの子供たちは席に着いたまま落ち着いて話を聞きます。トミーにいたっては風で机から落ちた紙を拾って先生に手渡してあげるほどの冷静さです。

“オリジナル”の人々に臓器、そして命を捧げるために生み出された子供たち。しかし、彼らの行動や思考はまさに人間そのものであり、尊厳に満ちあふれていることが、本当に映画の節々で何度も何度も表現されています。ですが、ヘールシャムの子供たちの人間らしさは、のちにかえって彼ら自身の活路を絶つ原因となるのです。

成長し、臓器提供手術を二回経験したのち、ルースの死をきっかけにキャシーとの本物の愛に気づいたトミー。彼女のために少しでも生き長らえるべく、摘出手術の猶予申請のため、施設時代のある習わしを思い出します。それは生徒たちが創作した詩や絵画などの作品の中から、優秀な作品をギャラリーへ展示するというシステムです。トミーは「生徒の作品を品評するのは、芸術に対する姿勢に人格を評価し、猶予申請の基準にするためだったんだ」と主張します。かくして彼は入院中に描いた絵を携えて、キャシーと共に当時ヘールシャムの校長だったエミリと、ギャラリーへ出展する作品の選出係であった、マダムと呼ばれる女性のもとへ猶予の懇願に行きます。

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しかし、当然ながら子供たちの作品が猶予選考の基準になっていた、という事実などなかったのです。先で述べたように、ギャラリーへの出品はあくまでも、臓器提供者としての運命を背負わされた子供たちにも人格、そして人権があるということを主張するためのものでした。そしてその主張もむなしく、彼らの体は移植を待つ人々のために切り刻まれ続けています。

もっとも悲しむべきは、当時の先生たちに頼めば猶予がもらえるのだと本気で信じていたトミーでしょう。自らの悲惨な宿命を幼いころから受け入れてきましたが、愛する人のため成長した今、初めて自らの手で運命を変えようと試みます。しかし、彼の取った手段はかつて自分たちを管理していた施設の先生に頭を下げる、というものでした。施設を出て、成長してからも疑問を抱き反抗することなくただ指示を仰ぎ続けた、実直を通り越して愚直ともいえる彼の姿は、既存の社会体制に異論を唱えることなくなかば諦念めいたような表情でただ日々の生活をやり過ごす、現代の若者への批判のようにも感じました。

施設で見せた大人たちへの忠誠を守り続けるという誠実さが、成長した今、トミーから体制や権力に争い闘うための、真に人間らしく生きるための意志を奪ってしまったという帰結は、非常に悲しく皮肉で、人間の業の深さを物語っています。
絶望に打ちひしがれたトミーは、帰り道の途中で突然車を降りると、キャシーの目も憚らず大声で泣き叫びます。その姿は悲痛そのものです。しかし、これは自分を支配する人間たちに抵抗する術を知らないトミーが見せた、唯一の反抗と呼べる人間らしい行動でした。

 


私たちのほとんどは、今生きている人生は自分のものだと疑うことなく信じているかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。ある日、自分は本当はこう生きるべきなのだという指針を見つけたとき、我々はそれを手にすることができるのか。ひょっとしたら、私たちは想像以上に多くの権限を奪われていることだってあるのかもしれません。あの日のトミーのように為す術もなくただ悲痛に泣き叫ぶ姿は、明日は我が身という警鐘のようにも思えます。現実や既存概念に甘んじるだけでなく、時には私たちを取り囲む環境について、自分で考え疑問を抱き、必要であれば批判や抵抗をするべきだ、という助言なのではないでしょうか。