ワン!

映画だいすき〜

ミッドナイト・イン・パリ

 『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』や『マンハッタン』、『カフェ・ソサイエティ』など、ニューヨークを撮らせれば、ウディ・アレンの右にでるものはいないのではないでしょうか。最近は活躍の場をヨーロッパに移し、新境地を開いています。本作で彼が新たに目をつけたのはフランス・パリ。これは、”Les Années Folles(レザネ・フォール、狂乱の時代)”と呼ばれた第一次大戦後、世界大恐慌勃発までの、ピカソモディリアーニシャガールといった数多くの著名な文化人が活躍したフランスの黄金時代に想いを馳せるひとりの男のお話です。 

 『エコール・ド・パリ(パリ派)』という言葉がありますが、1920年代、当時アートの中心地であったパリは、数々の偉大な芸術家たちで溢れていました。売れっ子脚本家でありながら、小説家への転身を目指す主人公ギル・ペンダーが夜のパリの街を彷徨っていると、12時の鐘とともに1920年代へとタイムスリップし、憧れの芸術家たちと出会うというところから物語ははじまります。

 ウディ・アレン自身が「もしもニューヨークに住んでいなかったとしたら最も愛する街はパリである」と公言するほど、その美しい情景への情愛に溢れる本作の魅力について紹介します。

 

1. パリの街並みを惜しみなく映し出すオープニングクレジット

 アレン監督のパリに対する深い愛情はオープニングクレジットにおいてすでに確認することができるのではないでしょうか。日中と夜間のそれぞれの光によって表情を変える、パリを代表する名スポットたちの美しいスナップの連続。ものの数分のスライドショーですが、このオープニングクレジットをみただけでも、映画代の元を取った気分になれること請け合いです(いささかセコい感性ですが、公開当時小学5年生だったわたしは本気でそう思いました)。それほどまでにこのウディ・アレンの撮るパリは美しく、ため息必至です。機会がもしあるのなら、絶対に劇場でご覧いただくことをおすすめします。

 

2. ゴールデン・エイジを彩る数々の芸術家たち

 1920年代のパリへとタイムトラベルした主人公が対面を果たす偉大なアーティストたち。ウディ・アレンによる、彼の敬愛する芸術家たちの性格を的確に捉えた、ウィットとユーモアにあふれるジョークやセリフ回しに思わずクスリとしてしまった方も多いと思います。やはりアレン自身が北米東海岸出身のインテリなだけあり、すこしわかりづらい小ネタも多かったのではないでしょうか。無論、筆者もすべてのネタを理解できたわけではないのですが、ここでは有名な作家の解説や、知っているとさらに本作を楽しめるような豆知識について書いていきます。

A. James Joyceってどんな人?

 ギルが知識をひけらかす鼻持ちならない男、ポール・ベイツと行動をともにすることをなんとか避けるために婚約者イネスに『どうしても外せない予定』を提案します。「ジェイムズ・ジョイスが食事をした場所なんだ!」しかしギルの必死の説得もむなしく、イネスに「たったそれだけ?」とあしらわれてしまいます。それでは、なぜ彼がそこまであの場所にこだわりを見せたのでしょうか。

 ジェイムズ・ジョイスアイルランド・ダブリン出身の小説家・詩人です。彼の作品『ユリシーズ』はその後の文壇に多大なる影響を及ぼし、20世紀文学で最大の作家の一人とも言われています。ヨーロッパ圏では「ジョイスを読まずして小説家を志すものは存在しない」と言われているほど、小説家志望者にとってまさに登竜門的存在です。

 つまり、小説家としての転身・成功を目指しているギルにとって、ジョイスがいた場所へ行くことは、聖地巡礼の意味合いがありそうです。験かつぎのようなものですね。

 B. Luis Buñuelってどんな人?

 パブロ・ピカソの愛人、アドリアナに一目惚れをしたものの、バーで彼女にうっかり婚約していることをこぼしてしまい、置いてけぼりをくらうギル。そんな彼を見かねて同席に誘うのが、日本でも有名なスペイン出身のシュルレアリスムの代表的巨匠、かの有名なサルバドール・ダリです。この役を演じた俳優はまるでダリ本人がのりうつったかのような存在感で最高でしたね。

 そしてダリの友人として登場するのが、同じくシュルレアリストであり、また映画監督でもあるルイス・ブニュエルです。ダリが彼と二人が共同で制作した『アンダルシアの犬』は映画史に残る名作です。『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』や『昼顔』、『欲望のあいまいな対象』など、ブニュエルの名は知らなくても彼の作品の名前なら耳にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。

 ちなみに、作中で主人公がブニュエルに映画のアイディアとして語った「ある人物がパーティーに行くが、そこから出られくなる」というお話は、ブニュエルの『皆殺しの天使』という作品のストーリーになっています。本作ではギルが原案を提供し、それをブニュエルが後に映画化した、という設定になっているようですね。映画好きにはたまらない小ネタでした。

 

3. 芸術家としてのウディ・アレンの姿勢

 自身の作品で、監督と同時に脚本も担当している多彩なウディ・アレンですが、その妙技は歴代の芸術家たちのセリフに存分に発揮されています。個人的に、特に印象深かったキャラクターはヘミングウェイです。

 ヘミングウェイといえば19世紀末『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』などを著したマッチョイズム全開の男性的なアメリカを代表する小説家ですが、彼の発する情熱的なセリフから、監督は彼の作品の中のヘミングウェイに対して従来のイメージとは少し異なる性格を与えようとしたのではないでしょうか。

 憧れのヘミングウェイとの対面を果たし、自身の小説の批評を頼むギル。そんな彼にヘミングウェイは「死を恐れるな。死を恐れては何も書けない。小心は愛のなさゆえに起こるのだ。いい女を抱け(概括)」とアドバイスします。冷淡な文体ゆえに本人の性格もそうであると思われているヘミングウェイに、あえて人間味あふれるセリフをあたえ、作家の卵には惜しみない愛情を注ぐ。アレン監督の作家哲学が表出した演出です。

 

 

 

 

SOMEWHERE

『ゴッド・ファーザー』や『地獄の黙示録』で有名な映画界の大巨匠、フランシス・フォード・コッポラの娘であるソフィア・コッポラの描く、家族をテーマにした作品です。 

プロットに起伏があまり多くないため見所がいまいち分からない、という声もちらほら聞こえるので、ここでは筆者の個人的解説、というよりは解釈をすこし示してみようと思います。Twitterでは文字数が足りませんでした。

 

1. 車の役割

作品が始まって、まず一番はじめに映し出されるのは、サーキットを延々と疾走し続ける豪華なスポーツカー。爆音と砂埃を舞い上げながら何十秒もの間、画面の中から消えたり映ったりを繰り返します。初見の観客はポスターから受けるイメージとのあまりの落差に半ば呆然としてしまうのではないでしょうか。実はこのシーンが本作のテーマを具現化したシーンとなっています。

華やかな見た目とけたたましいエンジン音は、毎夜パーティーで遊び歩いてはストリッパーを部屋に呼びこむ主人公の生活そのもの。そしてその生活を繰り返している限り、彼の人生も車が走り続ける環状のサーキット同様、変化やゴールを迎えることはないのです。

この場面の他にも、本作には車が重要な役割、記号的な意味を持つ演出が随所に見られるので、そこに気をつけなながら鑑賞するとおもしろい体験ができると思います。

冒頭と同じように、物語の最後も車のシーンで迎えますが、はたして主人公ジョニーはどのような選択を取るのでしょうか。実際にご覧になって、確かめてみてください。(ネタバレ回避しました)

 

2. 音楽

ソフィア・コッポラといえば、挿入歌やSEへのこだわりが強く、選曲の非常に素晴らしい監督という印象があります。同監督の作品に『ロスト・イン・トランスレーション』や『ヴァージン・スーサイズ』がありますが、どちらも非常に挿入歌の選曲に優れており、耳でも楽しむことができる作品なので、音楽が好きな方にはおすすめします。

そんなソフィアが今作では、「できる限り音楽は使わないで静寂を大切にした」とインタビューで語っていた通り、全編を通してときどき身を刺すような静寂が訪れます。映画館で観たかったです。成人男性が一人暮らしをするとこうも静かなのか!と痛感してしまうほど、セリフを含め音が少なく、主人公の孤独感がひしひしと伝わってきます。 

とはいえ挿入歌がまったくのゼロというわけではありません。個人的には、Foo FightersのMy Heroにのせて主人公の部屋でストリッパーの女の子がポールダンスをするのはおもしろすぎると思いました。

 

3. カメラワーク

前作『マリー・アントワネット』では、主人公に寄り添うように主観的なカメラワークが多く、観客、とくに若い女性からの共感が得やすいような演出でしたが、今作は打って変わってロングショットがとても多くみられます。父娘どちらかの主観というのはあまりなく、引きのカメラワークがほとんどでした(ポスターにも使われてる、プールサイドで椅子に座って日光浴してるシーンなどが顕著な例だと思います)。

父と娘の本当に些細で日常的な出来事を遠巻きに、しかしどことなく優しさや愛おしさを感じる距離から撮影されています。では、これは誰の視点なのでしょうか?やはり、ここまでふたりの時間を幸福感を持ってみられる視点というのは母親(妻)のものに他ならないのではと思います。調べてみたところ、やはりソフィア・コッポラ自身が妊娠し、母親になってはじめて撮った作品でした。

ソフィアはインテビューで「同じ父と娘であっても、ジョニーとクレオの関係と私と父の関係はまったく違う」ときっぱりと断言しており、またF・F・コッポラがどのようなお父さんだったのかはわたしにはわかりませんが、娘が自分と同じ職業を選択し、父と娘の関係をテーマにこのように素晴らしい作品を創りあげているという事実に、わたしがF・F・コッポラだったらなんとも幸せなことだなあと感じるような気がします。

わたしを離さないで

2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作といえば、『日の名残り』が有名ですが、今日は彼の作品で一番好きな、『わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go)』の映画化作品について書きます。

クローンの進化が生み出す生命倫理問題を題材とした映画は、これまでも多く作られてきました。しかし、それらの多くがSF色の強い、登場人物のアクションを重視した作風だったことと比較すると、この映画はずいぶんと真に迫るような、哲学色が強くかつ現実的な作品であるように感じます。これは、ド派手なCGやVFXなどの映像技術が使われていないから現実味がある、という意味ではありません。原作者カズオ・イシグロの落ち着きのある、しかしエモーショナルな文体が描き出す医療のあり方は、観るものに何を語りかけているのでしょうか。

1.登場人物の特徴

クローンという題材とアメリカ映画のアクション性は基本的に非常に相性がよく、代表的な例としてシュワちゃん主演の『シックス・デイ』や、アルマゲドントランスフォーマーで有名なマイケル・ベイ監督の『アイランド』などがあります。これらの作品において、クローン側の人間たちは“オリジナル”の人間たちに臓器提供するためだけに造られた、いわば人ではなく“もの”としての扱いを受けます。

アメリカ映画におけるクローン問題をテーマにした作品でのゴールとは、ずばりヒューマニズムの奪還であり、人道主義のために必死に闘うということが主人公に求められています。そのため、シュワちゃんやウィル・スミスのような、たくましく筋骨隆々の、マッチョイズムの権化のような男性が主役に抜擢されることが多いですね。ハリウッド流SF映画の大儀は、悪や不正と戦い、これらを打ち負かすことによって完成されるのです。 

それに比べて、本作の主人公キャシーはマッチョイズムのマの字もないか細い少女であり、彼女の友人ルースも同じくきわめて細身です。『アメイジングスパイダーマン』で主役をつとめたアンドリュー・ガーフィールド演じるトミーでさえ、本作では病院服を着せられ顔色も悪く、なんとも虚弱な印象です。
とにかくクローンたちが一様に細く弱々しく、人間らしくあるために闘えるような肉体とは到底言えません。この作品では、クローンたちはひらすらに弱者で、抗うことなく“オリジナル”側の人間たちから搾取され続ける立場なのです。

そしてそれが顕著にあらわれるのが、ルースの3度目の臓器提供のシーンです。驚くべきことにこの手術シーンはきわめて詳細かつ鮮明に映し出されており、彼女の体から内臓が取り出される場面がはっきりと描かれます。いかにも物議を醸しそうなむごいシーンですが、これを以ってして監督を単なる変態サディストと決めつけてしまうのは、すこし早合点ではないでしょうか。

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実にイギリスらしく救いがない、なんとも残酷で皮肉な展開だなと思いますが、同時に逞しい男性がアクションで活躍するアメリカ映画と対照的に、か細く弱々しい女性の体を切り刻むという、ある種のフェティシズムと表現しましょうか、独特の美意識のようなものも感じ取れます。色調を冷たく抑えた手術室なかで水際立つ真っ赤な臓器たちは、逆説的ながら、説得力をもって生を観るものに突きつけているように感じます。

2.若者のアパシー

さて、冒頭で述べた「現実的な作品」という言葉に関してですが、これは画のビジュアルや俳優のルックスのみを評しているわけでもありません。筆者が非常にリアルだと感じたのは、クローン、つまり“臓器提供者”を育てる施設ヘールシャムの子供たちが、自分たちに突きつけられた運命に対して、あまりに無関心かつ無抵抗であるという点です。

まず違和感を覚えるのは、サリー・ホーキンス(全然関係ないけどシェイプ・オブ・ウォーターサリー・ホーキンスの演技ほんまによかった、みんな観てな)演じる新任教師ルーシー先生が、ある日耐えきれず生徒たちに彼らの宿命を打ち明けてしまうシーンです。実はヘールシャムは臓器提供のみを目的としたクローン人間の生成が合法化された世界で、ドナーとして生を受けた子供たちに人道的な教育を施し、人間として育てることによって"オリジナル"の人々の生命倫理を試す最後の砦のような施設だったのです。ルーシーは待ち受ける未来の悲惨さを知らずに、無邪気に振舞う子供たちの姿に胸を締め付けられ、ついに真実を口にしてしまいます。
しかし、「大人になったら自分の体から臓器を取り出される」と聞かされて、普通の子供ならばショックを受けたりパニックに陥りそうなものですが、ヘールシャムの子供たちは席に着いたまま落ち着いて話を聞きます。トミーにいたっては風で机から落ちた紙を拾って先生に手渡してあげるほどの冷静さです。

“オリジナル”の人々に臓器、そして命を捧げるために生み出された子供たち。しかし、彼らの行動や思考はまさに人間そのものであり、尊厳に満ちあふれていることが、本当に映画の節々で何度も何度も表現されています。ですが、ヘールシャムの子供たちの人間らしさは、のちにかえって彼ら自身の活路を絶つ原因となるのです。

成長し、臓器提供手術を二回経験したのち、ルースの死をきっかけにキャシーとの本物の愛に気づいたトミー。彼女のために少しでも生き長らえるべく、摘出手術の猶予申請のため、施設時代のある習わしを思い出します。それは生徒たちが創作した詩や絵画などの作品の中から、優秀な作品をギャラリーへ展示するというシステムです。トミーは「生徒の作品を品評するのは、芸術に対する姿勢に人格を評価し、猶予申請の基準にするためだったんだ」と主張します。かくして彼は入院中に描いた絵を携えて、キャシーと共に当時ヘールシャムの校長だったエミリと、ギャラリーへ出展する作品の選出係であった、マダムと呼ばれる女性のもとへ猶予の懇願に行きます。

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しかし、当然ながら子供たちの作品が猶予選考の基準になっていた、という事実などなかったのです。先で述べたように、ギャラリーへの出品はあくまでも、臓器提供者としての運命を背負わされた子供たちにも人格、そして人権があるということを主張するためのものでした。そしてその主張もむなしく、彼らの体は移植を待つ人々のために切り刻まれ続けています。

もっとも悲しむべきは、当時の先生たちに頼めば猶予がもらえるのだと本気で信じていたトミーでしょう。自らの悲惨な宿命を幼いころから受け入れてきましたが、愛する人のため成長した今、初めて自らの手で運命を変えようと試みます。しかし、彼の取った手段はかつて自分たちを管理していた施設の先生に頭を下げる、というものでした。施設を出て、成長してからも疑問を抱き反抗することなくただ指示を仰ぎ続けた、実直を通り越して愚直ともいえる彼の姿は、既存の社会体制に異論を唱えることなくなかば諦念めいたような表情でただ日々の生活をやり過ごす、現代の若者への批判のようにも感じました。

施設で見せた大人たちへの忠誠を守り続けるという誠実さが、成長した今、トミーから体制や権力に争い闘うための、真に人間らしく生きるための意志を奪ってしまったという帰結は、非常に悲しく皮肉で、人間の業の深さを物語っています。
絶望に打ちひしがれたトミーは、帰り道の途中で突然車を降りると、キャシーの目も憚らず大声で泣き叫びます。その姿は悲痛そのものです。しかし、これは自分を支配する人間たちに抵抗する術を知らないトミーが見せた、唯一の反抗と呼べる人間らしい行動でした。

 


私たちのほとんどは、今生きている人生は自分のものだと疑うことなく信じているかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。ある日、自分は本当はこう生きるべきなのだという指針を見つけたとき、我々はそれを手にすることができるのか。ひょっとしたら、私たちは想像以上に多くの権限を奪われていることだってあるのかもしれません。あの日のトミーのように為す術もなくただ悲痛に泣き叫ぶ姿は、明日は我が身という警鐘のようにも思えます。現実や既存概念に甘んじるだけでなく、時には私たちを取り囲む環境について、自分で考え疑問を抱き、必要であれば批判や抵抗をするべきだ、という助言なのではないでしょうか。 

風立ちぬ

1.二郎と菜穂子の恋愛

公開当初わたしは小学生で、その頃から映画口コミサイトを閲覧するのが好きでした。特に風立ちぬに関しては賛否がかなり分かれていて、印象的だったことを覚えています。その中でも、特に心に残った言葉がありました。「主人公2人の恋愛はこの映画には必要なかった。更に言えば、菜穂子自体登場させる必要がなかった。」というものです。結論から言うと、わたしは絶対に必要だったと考えています。次郎と菜穂子は、そして2人の恋愛は、『普通ではない』ものだったからです。

普通、戦時中の暮らしと聞いて思い浮かべるのは、不衛生で質素、贅沢からかけ離れた苦しい生活ではないでしょうか。しかし、この映画の主人公2人の生活はそうではありません。飛行機開発会社に勤める東京帝国大卒の秀才航空技術者である二郎。裕福な家庭で生まれ育ったお坊ちゃまエリートです。菜穂子も同様で、東京の代々木上原に住む絵画が趣味の資産家の令嬢。絵に描いたような、"良いところのお嬢さん"ですね。『火垂るの墓』とは正反対、2人は戦争の可哀想な犠牲者ではありませんでした。要は地震も、火事も、貧困も、そして戦争も、2人の命にまで関わるような要因ではなかったのです。

では、二郎と菜穂子の愛を妨げるものはなんでしょう。それは菜穂子の結核という、戦時中であろうが、戦前であろうが、現代であろうが、日本だろうが外国だろうが、いつでもどこでも死因になり得る『病気』という存在です。わたしにはこれがとても好印象でした。二郎の戦死や菜穂子の食糧不足による栄養失調での死が原因だったなら、戦争の悲惨さを伝え、もう二度と繰り返してはいけないというメッセージをわたしたちに伝えるのはもっと簡単かつ確実だったでしょう(もし宮崎駿がそうしたいと思っていたならの話です)。

しかし、宮崎駿はそれをせず、またあの時代に存在した『社会格差』をあけすけに肯定しました。守られ、大切に扱われた立場のものと、そうでなかった立場のものがいたこと。少数の選ばれたものたちが、目的のために多くの選ばれなかったものたちを犠牲にしたこと。つまり普通はめでたしめでたしで締めくくられるはずの、二郎の追いかけた夢の実現(戦闘機を完成させたこと)が、どこかで誰かの命を奪う要因になったこと。これらを肯定したことに、宮崎駿の覚悟を感じました。ちなみに、ジブリ作品でヒロインが劇中にて亡くなるのは『火垂るの墓』の節子以来らしいですね。

 

2.二郎の夢の追求

自分の生活や周りを犠牲にすることをも厭わないほどのなにかへの熱というのは、思春期の若者を描写する際にしばしば一緒に描かれる表現です。若さゆえに周りが見えず、そしてなにかを疑うことなく信じ、なにかに全力に一直線である。しかし、二郎の熱は大人になっても冷めませんでした。近眼のせいで幼い頃にパイロットの夢を一度諦めていることも、関係しているのかもしれません。

『大人になっても夢を追い続ける』というのは、一見、少年の心を失わない素敵な大人に見えるかもしれません。しかし、二郎の夢の追求には様々な犠牲がありました。家族への思いやりには乏しく、時間や予定にはルーズ。妻の愛の言葉に返すのはいつも「綺麗だよ」。鯖の骨の曲線の美しさをみたときと同じセリフです。家族といるときよりも、妻といるときよりも、夢の中で生きている二郎がもっともいきいきと描かれています。また、前述の通り二郎が作っているのは戦闘機です。爆弾を積んで戦場へ行き、人を殺すことを目的とした道具です。しかし、それでも二郎は夢を追い続けます。

飛行機が完成し、試験飛行の朝、病状の悪化していた菜穂子は置き手紙を残して二郎のもとを去ります。好きな人に美しい自分だけを見せたかった古き良き日本女性。本当にそうでしょうか。わたしには、これが菜穂子の復讐にしか思えませんでした。少年の心を忘れず、自分の中の美しさを追求し続けるあまり、多くの犠牲を出す夫に、わざと『美しさに終わりが来る』ということを教えてあげない。それが菜穂子の、自分以上に夢を愛した夫に対する、最後の仕返しだったのではないでしょうか。

宮崎駿は企画書に「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。」という言葉を残しています。ここでわたしは宮崎駿の二郎への自己投影を感じました。この映画は宮崎駿の罪の告白かもしれません。そしてわたしは2人を少し羨ましく思います。わたしには2人のような才能がないし、自分の中の美を追いかけ続ける権利は、才能あってこそではと思うから。

 

ちなここまで書くのにばり時間かかった。おしまい